日々是好日


変わりゆくもの


春はあけぼの……夏は夜……秋は夕ぐれ……冬はつとめて……。(枕草紙)
なんと言っても定子中宮&清少納言コンビ派である。

体言止め技法の効果、端的でインパクトある表現。1000年を挟んでも、「なんといってもこれよね!」的感動がダイレクトに伝播する。 直ぐな真っ当の爽快さ。歯に衣着せぬ忖度なし。そして、すべてに手厳しめな彼女が手放し至誠で奉仕するのは中宮定子。最強なのである。 豊かさと品格、機微に風雅。でもそれだけじゃオナカは膨れない。なのにそこに膨大なエネルギーを注入する。強気、ナマイキ、容赦しない不条理。同じことを凡人がしたら興ざめする。野放図だし、下品だし。鼻白んで、眉までひそめちゃうんだが、清少納言サマがやると、世界は輝くのである。鮮やかに思い切りチャーミングだ。

ライバルの彰子皇后は、お父様(藤原道長)インパクト強すぎで、人となりまで関心が届かない。
おそば仕えの紫式部はなんか知らんが陰気くさい。源氏物語はそこそこ面白いんだけれど、これといって揺り動かされるヤマは少なめだし、延々長々書き続ける性格ってなんだかちょっとね、仲良くなれそうにないな。執念深そうだし、うっかり気に障ること言ったら、ずっと忘れてくれなさそうだし。だからなんかちょっとね、どうも好きにはなれないの的な。
私の推しである清少納言サマを罵詈雑言しやがるし、生々しいお騒がせが魅力的な和泉式部の人間性まで平気で否定してくるし。やだやだ、いったいナニサマのつもりなのよ。

しかしながら、である。紫式部から目が離せない。大河ドラマのウイカちゃん(ききょう=清少納言)より吉高由里子ちゃん(まひろ=紫式部)が好きってわけじゃないんだけど。推しに対する熱意を失ってもいないのだけど。でも、なんだかね。この年になるとちょっと感じるところがあるわけですよ。清少納言サマのあの無遠慮な物言いや、露骨に発露しちゃう自意識過剰が、イタタタタとこちらの恥ずかしさを刺激する。正面から応援するのは気が引ける。スカッとさっぱり、爽快好みだった私の感性はきっと世の中に馴れ過ぎて、常識的な仮面をかぶり、そうなの、年を取ったのです。気づいていたけど、さしてヤマのない人生を延々続けているうちに、私自身も考えも、陰気くさくなりがちだということを。

過去の資料を見ていたら、つまらないミスを見つけた。自覚のないミスだったから、なんだかとてもズシンときた。目の前をポスターカラーですき間なく恥ずかしさを塗りこめられた気がした。
あなたずっとそこにいたの? 気づかなかった私をずっとそこで見ていたの?
向こう見ずな怖いもの知らず、世間知らず。気づけないくせに、高慢ちきにいい気になってた過去の恥が、目の前で再現されている。一生懸命の一方通行。安易な考え。主人公気取りの稚拙さ。時間も周囲も味方につけちるのだと、考えなしに生きていた。過去のナマイキは恥ずかしい。自分のミスを棚に上げて、痛快に誰かを批判するなんてもっと恥ずかしい。相手がこちらの無力に気づいていて、指摘もせずに冷たく観察されていたりしたら、恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい。なんなら恥ずかしすぎて、相手を穴に突き落としてしまいたいまである。

紫式部好きじゃないと言いながら、実はいくつも読んでいる。大和和紀の「あさきゆめみし」からはじまって(きっかけは、そのずっと前の「ラブパック」だった)。円地文子らの「源氏物語のヒロインたち」を虎の巻にし、小説デビューは、読みやすい田辺聖子「(現代語訳)新・源氏物語」版だった。少し難易度上げて円地版にチャレンジし、その後の与謝野晶子版で躓いた。田辺聖子、関西弁ズッコケオモシロ源氏パロディ版、「春のめざめは紫の巻 新・私本源氏」で一息ついて、谷崎潤一郎に挑んだ。なんだか美意識高すぎて途中で放り出し、橋本治版は、話題につられて買っては見たけど積読(積んどく)状態。瀬戸内寂聴のは装丁が美しかった。買ったばかりの書棚に飾ったら見栄えした。なので表紙を開くことなくそのままだ。あれれ、そんなに読んでるわけではないけれど、結構な頻度の接触だ。
嫌いと公言しながらのずいぶんな執着。自分から近づいておいて、嫌い嫌いと口にする。こんなとこ嫌、あんなとこ気に障る。大体さあ…って。嫌なら距離置けばいいだけじゃないか。必要に迫られてもいないし、誰かに頼まれているわけでもいない。本屋に行って、お財布からお金出して、わざわざ自ら求めてるくせに文句言っている私、とってもカッコ悪い。

年取ると自分が主人公じゃないことに嫌でも気づく。どこ行っても大抵はモブキャラだし、誰にも歓迎されない敵キャラだったりする。若さは老練し、「嫌」という言葉が不思議に思えてくる。
「嫌い」と口にするのは、接点を欲しがっているサインかも。ほんとはすごく興味があって、もっともっと知りたいスイッチなのかもだ。知ろうとしても理解できなくて、「嫌い」の一言で決着をつけちゃいたくなるけれど、諦め切れずに、自分から再び近づいて行く。「嫌い」の反対語は…などと考え出すと、どうも「嫌い」は「好き」の前兆ではないかとも思えてしまうのである。

嫌いの反対は無関心。感謝の反対は当たり前。
そう言い切ってしまえば、観念的でうんざり風にもなってくるが、対語としては的を射ていると思う。嫌とか、気に入らないとか、どうにかならんかとか。考えてみても、嫌と思う時点で「気になって仕方がない」のだ。

職場でも、社会でも、多くの人々は、根っこに「もう嫌」がある。50歳をトウの昔に越えた私だって、「もう嫌!」に向き合えなくて、右から左から斜めから、ためつすがめつ、「もう嫌」とため息ついて日延べする。でもでも、この「もう嫌!」が、未来の「好き」に繋がるかも知れないって考えると、なんだかとても楽になる。これは時間の力を借りなさいということか。「もう嫌」で切り捨ててしまっちゃいけないよということか。

「嫌いの反対は無関心、執着するのは関心の証拠」。など観念的な言葉なら飲み下したくない。自分だけが我慢しているように感じるし、続くとなれば気も遠くなる。
清少納言なら、この「もう嫌!」を「×! ×! ×!」と真っ直ぐ表出するだろう。
でも、しかし、紫式部はこの「もう嫌!」をずっと抱え込んで、発酵させて、物語のカタチに育てて昇華させたのかも知れない。手放せない感情を、手放さず時間をかけて違うものに生みかえて放出させたのかも知れない。「もう嫌」の種は発芽して、双葉と茎を伸ばして、やがて本葉になって、そして花と再びの種を生み出し、物語は1000年続いている。
それはまるで魔法みたいな、トリプルAみたいな、ランプの精というか、魔法使いのような。老若男女はその魔法に触れて、自分の思いを眺めながら、また時間をかけて発酵させる。優れた物語には、受け入れたくない感情を外在化してくれる力があるから。

花見のニュースが続いている。つぼみ画像、咲き始め予測、開花宣言、お花見ピーク、桜吹雪と時間の経過とともに流れてくる。花のニュースは、白梅、紅梅、そして桃。木蓮もすみれも、そのうち菖蒲も気持ちよく花を咲かせるだろう。時間は意識していないものを育てる。
日々の変化は、なにかを消したり、好ましく変えたりを繰り返す。今日を転がして。毎日を転がして。言いたいことをすぐに言えるのは素敵だ。でも、すぐに判断しなくてもあとから価値に繋がるものも溢れているはず。
春だ。花が咲く。みんななんとなく浮足立つ季節。今は地道に、虫のように、目の前のものを転がしながら、見える景色も見えない風景も愛でる喜びを甘受しよう。


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